中村栄光教会
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2003年12月21日
日本キリスト教団中村栄光教会
クリスマス礼拝説教
こころの貧しい者へ


中村栄光教会牧師 北川一明


マタイ
5:3-10 聖書研究    中村栄光教会
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旧約聖書【詩編 第6編2〜8節】
新約新約【マタイによる福音書 第5章3〜10節】








こころの貧しい者へ

北川一明

T.
 クリスマスは、ご承知の通り、イエス・キリストの誕生日です。それは、すなわち「神がこの世にやって来たこと」だから……と。クリスマスは、しばしば「闇の中に光が射し込んだ」ようなもの……と、喩えられます。
 神を「光」に喩えるのは、どこの宗教でもありますが。キリスト教は、その「光」が、わざわざ「闇の世界」にやって来たというのですから。イエス・キリストがお生まれになる前の世界は、つまりは「闇」だったということです。
 世がやみであるとは、どういうことか。信仰を持つ前の自分は、闇の中に居たのだろうか……と、考えてみますと。
 「闇」って言っても、いかがでしょうか。自分が、そもそも本当の「闇」を、あまりよく知らないことに、気付かされます。
 テツガク的な話しじゃぁ、ない、普通の生活での話しですが; 夜、雨戸を閉めきって寝ていても。家の中には、何か電気製品の発光ダイオードが光ってます。他が暗いと、そんな小さな光でも、結構部屋の中の様子が分かります。
 外に行っても、どこかで街灯が光ってますし。星の出ていない夜、山の中で。どういう訳だが、山の稜線がいくらかは見えたりします。現代の日本は、闇がなくなった世界なのかもしれません。
 発光ダイオードの小さな光もない、本当の闇っていうのは、どういうものか。それで想像してみますと、少し、怖くなります。全部が黒だったら、目があっても無いのと一緒の状態です。真っ暗な中に、自分がひとりぼっちで。周りとの関係が、いっさい分からないのです。
 それは多分、うんと恐ろしいことです。いろいろな物が「在る」はずなのに。そのいろいろな物が、私とどうかかわるのか、全く分からないのです。自分が、その世界の中で、何なんだか。それも分からなくなってしまいます。
 「闇」というのは、きっと、そういうものです。聖書が闇と言う時の「闇」とは、ただ暗いンじゃぁなくて、光がないことですから。きっと、そういう「闇」です。
 自分を取り巻く周りには、いろいろなものが、あるのに。それが、何だか皆目分からない。だから、自分がどこに居るのか、何のための存在なんだか。結局は、それも分からない。闇とは、そうやって自分の存在の根拠が、おびやかされる。そういう恐怖です。
 そこに在るはずの何かが、せめて、音でも立ててくれれば、ほっとします。位置関係が分かりますから、ほっとします。ただ、その音が、知っている音なら良いんですけど。得体のしれない音で。しかも・それが、だんだん自分に近付いて来たりしたら。また、恐怖です。
 どこかに逃げようにも。闇だったら、どこが出口で/どこが奈落の入り口か。さっぱり分かりません。だいたい、全部が闇ってことは、「出口なし」ってことです。それは、恐ろしい。
 そういう闇に、光が射し込んだのなら。どんな小さな光であっても、たいへんな慰めです。
 キリストさまのご降誕は、そういう喜びだと言うのです。
 まさか、信仰を持つ前から、私は目は見えますが……。だけど「キリストさまこそ、私の救い主だ」と。信じることが出来た時には。本当に、「あ、世界は、私にとって、こういうものだったんだ」……って。それが分かった……と。そうやって言うことが出来るなァ……と。
 本当に、神は「光」であると、思わされました。

 私には、忘れられない……ある、救いのモデルというようなかたがあります。自分が、信仰が良く分からなくなってしまった時。そのかたのことを思い出すと、神さまを思い出せる。そういうひとです。
 クリスチャンでは、ありません。そのひと自身は、少なくとも私がお会いしていた頃は、信仰さえ、ありませんでしたし。人格が優れている訳でも、ありません。どういうかたかと言いますと……「悲しんでいるひと」でした。
 世の中を、普通に生きて行くだけの能力が、ちょっと足りないひとです。基本的な社会性みたいなものが欠けていて、だから、うまく生きて行けない。そういう意味では、自分が悪いんですけど。そのために、世の中から深く傷付けられて……。だから、深く「悲しんでいるひと」でした。
 そのかたと会うと……イエスさまは、こういうひとのために、来たんだ……と。このひとの、この悲しみを担うために、世に来てくださったんだなァ……と、感じるんです。
 幸いなるかな、このひとは、主によって、慰められる。パッと、なんだか神さまが、分かるように感じられます。そういうひとです。

U.
 「悲しむ人々は、幸いである」と、イエスさまは、おっしゃいました。
 悲しんでいるひとが、仕合わせだ、なんて。さすがにキリスト教は、「禅問答」みたいな難しいことを言うようですが……。でも、考えてみると、思い当たります。
 私の父が死んだ時も、妻の父親が死んだ時も。私も、妻も、きちんと、十分に悲しむことが出来ませんでした。「忙しい。葬儀で、やらなければいけないことが沢山あって、悲しんでいる暇がない」と、私ども、言いました。
 忙しさに、悲しみを紛らせていた。忙しさで悲しみを誤魔化していた……のか、と言いますと。あの時の自分を思うと、そうじゃぁないです。忙しさに、「悲しみ」を誤魔化したのではなくて。忙しさに、「悲しくなれない自分」を、誤魔化したんです。そう、思います。
 私の母も、妻の母親も、同じように……。十分には、悲しめなかったようでした。どちらも、お葬式の間、孫をみていて。「孫の世話で、気持を紛らすことができた」と言っていました。
 確かに、孫の相手をして「悲しみを紛らしていた」みたいに、その時は思いましたし。本人たちも、そのつもりです。けれども、良く考えてみますと。悲しくなれない自分を、孫にかこつけて誤魔化していたのかもしれません。
 本当に、ちゃんと悲しむということに、私ども、あんまり慣れていないのです。
 仕事のことで、何か、たいへんなトラブルに巻き込まれて、その責任を負わされたかたが、ありました。それまで精一杯配慮して、頑張ってきた事が、誰かのせいでご破算になって。そのかた、「私がやって来たことは、何だったんだろう」……と。そういう意味で、「悲しい」とおっしゃっていました。
 本当に悲しんでいる……面も、あるなぁと、見ていて思いました。けれども、すっかり悲しんでいる訳では、ありません。むしろ、怒っている。「何で、きちんとやって来た私が、こんな目に遭うのか」と。「不当だ」と、腹を立てている……面も、あるようでした。
 あるいは、このごろの不況で、会社を追い出されたひとは; ……会社のために、ずっと一生懸命働いてきたのに。会社が苦しくなったら、自分のことを、あっさり捨ててしまった。
 捨てられて、「悲しい」……っていう、その悲しみに触れた時には、「あ、この悲しみは、……だけどキリストさまによって慰められる」と。「慰めていただける」と、感じられるのですが。会社は、自分のことを、簡単に捨ててしまった。悔しい、腹立たしい……って。そのかたの怒りを感じた時には。「せっかくの慰めが、見えなくなってしまうのではないか」と。反対です、心配になります。
 私ども、大きな悲しみにぶち当たった時。深く悲しむことを、ためらう……やめちゃう……ところが、あるんじゃないでしょうか。
 「私が、こんな辛い目に遭うなんて」……「悲しい」ではなしに。「私が、こんな辛い目に遭うなんて」……、「腹立たしい」とか。「ヘンだ、何故なんだ」とか。「困る、これからどうすりゃ良いんだ」とか。「私が、こんな辛い目に遭うなんて」、「訳が分からん」、「苛々する」、「やんなった」、「もう、どうでも良い、どうとでもなれ」……と。
 私ども、悲しみを、ちゃんと悲しむことが出来ない……。そういう、弱い面があるように思うのです。愛する者に死なれても、……悲しむのが怖くって、悲しめない。
 だから、悲しめた時には、嬉しい位です。
 愛する者に死なれて、「お葬式で忙しい」とか、「孫の世話で気が紛れる」とか言っている間は。何だか浮き足立っていて、自分が、本当の自分になっていないみたいです。本当の自分じゃぁない所で、忙しがっているような気がします。
 それが……愛する者との大切な思い出を、静かに思い出したら。そして・それが、もう永遠に、取り戻すことが出来ないことを思わされたら。さすがに、はらはらと涙が出ます。そうしたら、やっと、自分が自分で居た……自分に戻れた、みたいな。かえって・そんなような、気持になります。
 ですから、悲しむ人々は、幸いです。悲しむ人々は、豊かです。気を紛らしてるひとと違って、こころが豊かだから、はらはらと、熱い涙が出てくるんです。
 ところが私どもは、その悲しみを悲しむことも出来ない、「こころの貧しい者」なのです。

V.
 キリストさまは、そんな私どもの所に、来てくださいました。
 今日の新約聖書は、聖書の中でも、たいへん有名な所です。「こころの貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と。神の言葉を聞こうと集まった人たちに、イエスさまは、何よりもまず祝福を語りました。
 「こころの豊かなひとになりなさい」みたいな、小うるさいことは言いません。こころが貧しい、今の私どもが、幸いであると言われます。天の御国は、われわれのような人間に対して、開かれている。どうしてかって言えば。私どもを、神の御国の住人にするために、イエスさまが来てくださったからです。

 私どもは、悲しみを悲しむことの出来ない、こころの貧しい者です。悲しみとは、たいへん恐ろしいものだからです。
 事故で子どもを奪われたならば。大きな悲しみです。そういう時、遺族は、しばしば、犯人だとか、行政だとかを一生懸命糾弾します。裁判を、します。お金がほしいからではありません。「正義の味方」だからでも、ありません。悲しい出来事に対して、何事かをしないでは、いられないからです。
 悲しい出来事が起こってしまったのは。その原因に、たいてい、どこかに悪い点があります。不正があるか、誰かが失敗をしでかしたか、です。悲しんでいる自分か、他人か、誰かの失敗か不正のためです。そうでなかったら、父親の死みたいに、われわれ人間にはどうしようもない、人間の、腹立たしい宿命のためです。
 悲しみには、そういう原因があります。原因に対して、何か出来ることがあったら。われわれ、それに飛び付きます。飛び付いて、それを、やります。原因に対して出来ることがなかったら。たとえば葬式をしたり、孫をあやしたり……と。てんで関係のない、とにかく・やれることを、やります。何かを、やります。
 何にもやらなかったら……。悲しみだけが残ってしまいます。
 残ってしまう「悲しみ」って、何なんでしょうか……。悲しい出来事に、怒りもせず、苛立ちもせず、何もしなかったなら。残ってしまう「悲しみ」とは、何でしょうか。
 ……「悲しみ」とは、「何も出来ない」ということ、そのものであるような気がします。「何も出来ない」、「どうしようもない」。しかし「だからしょうがない」と諦めることも出来ない。悲しみとは、「絶対に諦められないのに、どうしようもないこと」でしょうと思います。
 そんなの、耐えられません。どうしようもないのに、どうしても諦められなかったら。しかも、何にも出来なかったら。気が狂ってしまいます。
 けれども「気が狂う」のだって、「ぼける」のだって、「やること」です。意図してやっている訳ではないにしても。悲しまなくなるために、人間が、「やること」です。
 狂いもせず、けれども、どうしようもない。どうしようもないのに、どうしても諦められない。誰も、何ともしてくれない。何とも、出来ない。「悲しみ」とは、そういう孤独と無力感です。
 悲しみに対して、何か、自分がやれること。それが、全部、なくなっちゃって。どうしようもない。みんな、慰めてはくれるけれども。そんな慰めでは、どうにもならなくって、ひとりぼっちで。それでも諦めることが出来なくって……。だから、どう言えば良いのか、ただ、悲しい。
 その、悲しんでいるひとが、幸いなんです。悲しむ人々は、「幸いである」。
 その悲しみが、キリストさまが降って来られた場所だからです。
 ひとりぼっちで、自分のことを、どうすることも出来ない。そこに、イエスさまが来られたのです。

W.
 イエスさまは、この後、ご自分が・ひとりぼっちになりました。
 みんなに裏切られて、十字架につけられました。その時は、ひとりぼっちで、自分のことをどうすることも出来ない、それでも諦められない、小さな「人間」でした。何にも出来ない、悲しいひとでした。
 人間なんかいなくっても、何にも困らないはずの神さまが。そういう、本当の、小さな人間に、なってくださいました。
 それは、私どもの、そういうどうしようもない……ひとりぼっちで、自分のことをどうすることも出来ないで、それでも諦められない、私どもの悲しみを、代わって負ってくださるためでした。そうして、その孤独で無力な悲しみの先にある、それを乗り越えた場所に、私どもを招いてくださいました。
 神が、永遠の天の御国に、私どもを招いてくださっているというのは。ひとりぼっちで、自分のことをどうすることも出来ない人間を。ひとりぼっちじゃぁない、大丈夫なところに招いてくださったのです。
 怒りも、焦りも、そういう天国とは、無関係です。怒りも、焦りも、そういう天国とは、全然関係のない、違った場所です。
 ひとりぼっちで、自分のことを、どうすることも出来ないという悲しみの先に……。本当に慰められる場所が、あります。
 そこに招くために、キリストさまは、人間になってくださいました。ひとりぼっちで、自分のことをどうすることも出来ない、ただ悲しむしかない、小さな「悲しいひと」になってくださいました。そういう奇跡が起きました。
 それが、クリスマスです。

 これは、信仰の問題です。
 キリストを信じた人間は、悲しむ人々は、幸いである……と。それを知っています。
 人間の信仰は、曖昧で、好い加減です。だから、信仰を与えられた後だったのに。親が死んだ時、私はそれを、当たり前に悲しむことが出来ませんでした。悲しみを恐れて、誤魔化しました。ひとりぼっちであること。死を、どうすることも出来ないことを、思い知らされるのが厭で、「忙しい、忙しい」と誤魔化しました。
 ですけれども、神が、悲しみのひとになってくださった……。私どもの悲しみを、知っていて。人間になって、その悲しみを、味わってくださった……と。そのことを信じていますから。
 あの時は、悲しみを誤魔化しましたけど……。「忙しい、忙しい」と言っているよりも、やっぱり悲しむ方が、幸いだ……と。それを知っています。そして、悲しみは、やっぱり悲しみたい……と。悲しもうと、覚悟が出来ます。
 悲しみを、悲しむ覚悟が出来たのは。自分が何か、知らされたからです。神さまの前で、自分は、自分で自分のことをどうすることも出来ない……。力のない、ひとりぼっちの、小さな悲しい人間です。
 けれども、「自分は何か」。そうやって知らされたのは、永遠の神さまが、その悲しみの先に、招いてくださっているからです。私は、力のない、ひとりぼっちの、悲しい人間ですが……、それなのに、神に愛していただいている。悲しみを、正しく悲しめるように。この孤独と無力を代わって負ってくださった。そういうキリストさまを、神は、私にお与えくださったのです。
 自分は、悲しい、小さな、けれども永遠の神さまから愛され、神の御元へと招かれている、人間です。
 だから、悲しみを、悲しむことが出来ます。悲しみを、正しく悲しむ時。嬉しいです。涙を流しながら、だけど、自分が、自分で居ることが出来ます。
 そして、悲しみを、正しく悲しむ覚悟が出来ている時。喜びも、また正しく、よく喜ぶことが、出来ます。真っ暗闇の中で、ひとりぼっちの慰みを喜ぶんじゃぁ、なくて。自分が何者か、分かっていて。今、与えられている喜びを、喜びと知っているのですから。喜びも、正しく喜ぶことが、出来ます。
 キリストさまが、人間になったというのは、そういう意味で、闇の中に。闇を照らす、真の光として、来てくださったのです。そういうことなのだと思います。

X.
 ……最初に申しました、あるかたは。悲しいひとです。世を生きる能力が、足りないひとです。
 仕事でも人間関係でも、また自分自身の悲しみでも。私どもは、器用に誤魔化します。そのかたは、適当に誤魔化す能力が、ありません。仕事も、人間関係も、だから・うまく・やれません。それで、失敗ばかりしています。
 失敗をして、悲しい目に遭うんですが。その悲しみをも、誤魔化せません。だからその悲しみを、全部、そのまま被ってしまいます。それじゃぁ、悲しいでしょう。悲しすぎて、やって行けませんから。何度も自殺を試みたようです。不器用で、自殺も出来ずに、ますます自己嫌悪に陥っていました。
 そのかたの、そういう悲しみを……。代わって負ってくださるために、キリストさまが来たんだなァ……と。何だかこの頃になって、それに思い当たるんです。
 悲しむひとが、イエスさまに目を向けることが出来たら、幸いです。器用に悲しみを誤魔化しているよりも。不器用で、ただ悲しむしかない……。自分が、闇の中に居ることを、誤魔化すことも出来ないで、それを思い知らされてしまったひとは……。そんなひとを・こそ、救うために来た、救い主を、認めたら、幸いです。
 キリストさまが、お生まれになった。それは、自分の闇に、光が来た。光が、射し込んだ……と。それを、ただ受け入れることが出来たら、幸いです。自分の悲しみが、どんなに悲しい悲しみか。良く分かります。だから、悲しみを、ますます深く悲しむようになります。
 けれども、その悲しみは、主が、負ってくださった悲しみだ……と。その悲しみの先の、天の御国に、私どもは、招かれている……と。それを、受け入れることが出来たら。悲しむひとは、幸いです。
 不器用な人生の中で、悲しみを、悲しんで。けれども、与えられた喜びは、最大限に喜んで。本来の、そのひとの通りに、生きることが出来ます。悲しむ人々は、幸いです。

 そのかたが、今、どうしているのか、知りません。キリスト教の牧師と、話しをしたのだから。できれば、救い主を、黙って受け入れていてほしい……と、思います。
 どうなったか、知りません。
 今の私に出来ますことは……。まず私自身が、悲しみを、悲しむことでしょうか。闇の中に、救いの主が、降って来てくださったのですから。恐れる必要は、ない。自分が、本当の自分のままで、悲しみは、悲しみたいです。主が来てくださったのですから、安心して悲しみたいです。
 それで、いつも本当の自分のままで。そこから喜びも、また本当に。静かに深く、喜べるようになるのだと思います。
 そして、周りの、悲しむべき、弱い、小さなひとたちには。そういう私どものために、主が来てくださった……と。それを、知らせたいです。
 ああいうかたが、信じるか/信じないかは、そのひと次第ですけど。まさに、ああいう悲しんでいるひとを救うために来たかたが、あるのだから。それを信じた者の責任として。あなたには、救いが、ある。あなたも、私どもと共に、神さまに救われる……と。そのことを、ぜひ、伝えてあげたいと思っています。

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