2004年11月14日
日本キリスト教団中村栄光教会
こども合同礼拝説教

ザアカイものがたり

12世紀オーストリアの写本より



聖書研究
ローマ6章    中村栄光教会
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新約聖書@【ルカによる福音書 第19章1〜10節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第6章16〜18節】






こども合同礼拝説教

ザアカイものがたり

北川一明

T.
 今日のルカ福音書は、ザアカイの物語りです。
 ザアカイ物語は、「桃太郎」や「シンデレラ」と同じように、誰にでも分かる、お話しです。「ザアカイは、イエスさまに優しくされて、すっかり良いひとになりました。めでたし、めでたし」というお話しです。
 そういうお話しは、普通は大人が子どもに語ってきかせます。けれども聖書は、たいへん不思議な本です。子どもよりも、大人にお話しして来ました。なんででしょうか。
 「桃太郎」や「シンデレラ」は。みんな最後は……、どうなりました?みんな、仕合わせになりました。ザアカイと一緒です。めでたし、めでたし、です。
 桃太郎は。鬼をやっつけて。鬼から、宝物をたくさん分捕って、仕合わせになりました。シンデレラは、王子さまと結婚して、仕合わせになりました。
 だけど、桃太郎みたいに仕合わせになろうと思ったら、鬼をやっつけなくっちゃぁ、いけません。シンデレラのように仕合わせになろうと思ったら、「玉の輿」を狙わなくッちゃぁ、いけません。真似をしようと思っても、なかなかできません。
 だけどザアカイのことなら、真似出来るのかもしれません。
 それで……自分のことを「仕合わせだ」と言えるようになりたいと、願っているヒト……。そういう自分の仕合わせ、自分の喜びを、真面目に考えることの出来るヒトのために。このお話しは、伝えられて来ました。
 自分のことを「仕合わせだ」と言えるようになりたいのは。子どもだけじゃぁないです。大人も、そうです。それで教会は、このお話しを、大人同士で語り継い来たのです。
 それでも、お話しの粗筋は「桃太郎」や「シンデレラ」に似てますから。簡単です。それで今日は、特別に。その大人のお楽しみを、子どものみなさんにも分けてあげよう……。今日は、そういう礼拝です。

U.
 昔々、エリコという町に。ザアカイという男が、ありました。すごく、悪い人でした。子分を使って、弱いヒトを脅かして。悪いことをして、金持ちになっていました。
 それで、みんなに嫌われていました。
 ひとに嫌われて仕合わせなヒトは、ありません。どんなにお金持ちだって、ひとに嫌われたら厭です。ひとには好かれた方が、良いです。
 だから、ひとに悪いことをしたら。どうしたら良いのでしょうか。「ゴメンナサイ」を言って、仲直りすれば良いんです。それは、幼稚園のみなさんも、ご存知ですよネ。
 だけどザアカイは、絶対にゴメンナサイを言わない男でした。どうしてかって言ったら。みんなだって、ザアカイに意地悪をしていたからです。
 この時も、そうです。「有名なイエス・キリストさまが来た」っていうので、みんなイエスさまを見物に行きました。ザアカイも見に行きました。
 だけどザアカイは、背が、うんと低くって。後ろで、背伸びをしても、見えません。みんなが親切に、前の方に通してくたら見えるんですけど。みんなは、意地悪をします。普段、悪いことをしてくるザアカイに、親切にしたくは、ありません。それで、ザアカイが後ろで「見えない、見えない」って言っても、聞こえない振りをしてました。ザアカイのことを、後ろ向きでポンと蹴っとばしたひとも、あったかもしれません。
 そういうことは……きっと、ザアカイの子どもの頃から、あったんです。
 今日の聖書には、「背が低かった」、ギリシア語で「エーリキア・ミクロス」って、わざわざ書いてあります。それは、「ちょっと背が低めだ」とか。「学年で一番前に並んでいる」とか、そういうことじゃぁ、なくて。もっと、です。背が、普通のヒトの半分しかない、とか。そういう特別な低さだったんです。
 そしたら子どもの頃。苛めたり、馬鹿にしたりっていうことは。友だちは、したかもしれません。
 それでも喧嘩は強かったんだネ。苛められたら、仕返ししたし。大人になってからは、ヤクザの親分になりました。
 それで、昔みんなに苛められた分。みんなを苦しめていました。

V.
 ザアカイと、他のみんなと。どっちが悪いでしょうか。
 たぶん……どっちも、悪いです。
 どっちも悪い時は、どうすれば良いでしょうか。
 両方が、ゴメンナサイを言って、仲直りをすれば良いんです。それは、大人も、知っていますし。幼稚園のみなさんも、ご存知だと思います。
 だけど、なかなかゴメンナサイは言えません。
 先生とか、大人から、「ゴメンナサイを言いなさい」って、言われても。仲直りをするのが厭なことも、あります。そういう時は、大人の前で一応「ゴメンナサイ」を言っといて。こころの中では、「いつか、仕返してやる」って思うかもしれません。
 大人の場合でも。やっぱり仲直りするのが厭なことが、あります。
 でも……教会に来ているひとだったら。神さまから、「ゴメンナサイを言いなさい」って言われます。それで、しょうがない。一応「ゴメンナサイ」を言います。
 教会に来ていないひとでも。神さまの代わりに、世間が。「大人の癖に、みっともない」って言います。それで、「私も、悪かったんです」って、一応、言います。
 教会に来ているひとも、教会に来ていないひとも。一応、ゴメンナサイを言うんですが。……謝ったからっていって、相手のことが好きになるワケじゃァ、ありません。
 喧嘩をした後、相手のことを好きになるのは。子どもの方が、上手です。大人の方が、たいていすぐに喧嘩をやめますが。喧嘩をやめても、その相手を好きになることが、なかなか出来ません。「ごめんなさい」を言ったら、言ったせいで、余計に嫌いになることが、多いです。
 大人は、仲直りが、子どもよりも下手なんだ……と思います。
 大人になるにつれて、仲直りがだんだん下手になるんです。それは、どうしてでしょうか。
 ザアカイのお話しを読んでも、分からなかったんですけど。聖書のもう一個の方(ローマ6:15以下)を読んだら、分かりました。仲直りが難しい理由は、人間が、「罪の奴隷」だからなんです。

W.
 「奴隷」って、分かりますか。誰かの家来になっていて。自分のやりたいことが全然出来ないのが、奴隷です。「家来」だけだったら、「奴隷」じゃぁありません。
 たとえば、『おじゃる丸』はご存知でしょうか。『おじゃる丸』に出てくる伝書蛍の「デンボ」は。あれは「おじゃる」の家来ですけど、奴隷じゃぁありません。だって、デンボは自分で考えて、自分がこうやろうと思ったことが、出来るからです。
 奴隷は、自分のやりたいことが全然出来ないで。ただご主人さまの命令を聞いているヒトです。
 そうやって考えたら。大人は、別に奴隷じゃァないゾ……って。だって、みんな自分がやりたいことが、出来るもんね……。
 けれども聖書は。あなたがたは、「罪の奴隷」か、「正しいことの奴隷」か。どっちかなんだ……って教えてくれます。
 ザアカイも、周りのみんなも、「罪の奴隷」だったんです。
 それは、何故かっていうと。「好きなこと」が出来るんだから、奴隷じゃぁないゾ……なんて言いますけど。じゃぁ……みなさんは、好きなこと……「何でもやって良い」って言われたら。何がやりたいでしょうか。
 ザアカイは、お金持ちだったし。喧嘩も強くって。だから、子どものころ苛めた奴らに、仕返しがしたい。みんなを苦しめたいから、苦しめていました。
 そういう悪いことを好き勝手にやって。だから、自分は奴隷じゃぁない。「自由だ」っていうつもりでした。
 でも、本当は自由じゃぁ、ありません。だって……最初に言いましたけど……ザアカイは、ひとから嫌われて、不仕合わせでした。ひとのことが好きになれなかったら、不仕合わせです。
 それで、もう「ゴメンナサイ」を言うことが、出来なくなっていました。みんなを好きになることも、出来ませんでした。
 自分が不仕合わせなのに、みんなを好きになれないで。仲直り出来ないんですから。やりたいことが、全然出来ていない。ザアカイは自由じゃァ、ありません。
 「罪」とは、すごく悪いことです。ザアカイは「すごく悪いこと」の奴隷だったから。そんな風に不仕合わせでした。

X.
 ザアカイ……自分が悪いんだよネ。自分のせいだと思いますし。周りのひとたちも、みんなそう思ってました。
 「ザアカイは、お金持ちだけど、全然仕合わせじゃぁ、ない。それは、悪いことばっかりしているからだ」と思ってました。
 この周りのヒトたちは、そんなに悪いことをは、していません。だから、自分たちは「罪の奴隷」じゃァない。そういうつもりでした。
 だけど、神さまから見たら。この周りのひとたちも「罪の奴隷」だったんです。
 なぜかというと、こういうヒトたち、ザアカイのことを好きになれません。
 ひとのことを好きになれなかったら、不仕合わせです。それはザアカイも、周りのヒトも、同じです。ザアカイがいたら、いっぺんで厭な気分になります。不仕合わせになります。
 だけど、ザアカイのことを好きになれません。出来ないんです。だから、罪の奴隷です。
 ここに出てくるひとたちは。みんな、罪の奴隷でした。
 罪の奴隷じゃァないのならば、正しさの奴隷です。
 「正しさの奴隷」っていうのは、罪の奴隷の反対です。ですから、ヒトのことを、嫌いになることが出来ません。つい、どうしても、ひとを好きになっちゃって。大切に思っちゃうヒトが、正しさの奴隷です。
 今日の聖書には、そういうヒトは、出てきません。ザアカイは、みんなのことが嫌いだし。みんなはザアカイのことが嫌いだし。みんな、罪の奴隷でした。

Y.
 アレ?……だけどイエスさまは、「正しさの奴隷」かもしれません。イエスさまは、最低、最悪のザアカイのことを、嫌いになることが出来ませんでした。好きになっちゃいました。
 ザアカイが、背が低くって。イエスさまが見えない……ってんで。先回りして、木に登って。木の上から見物してました。そんなザアカイを見て、好きになっちゃいました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい(5)」って。ザアカイに会って、イエスさまは、いっぺんで一目惚れしちゃいました。
 だからイエスさまは、正しさの奴隷です。
 まぁ、でもイエスさまは、神さまだから特別です。
 だけども、イエスさまの力は、凄いです。イエスさまは神さまだから、イエスさまだけ正しさの奴隷でも当たり前……だと思っていたら。イエスさまに、そうやって言われて。ザアカイも、いっぺんで、変わっちゃいました。
 罪の奴隷だったのに。罪の奴隷じゃァ、なくなりました。
 イエスさまに、「泊めて」って言われて。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します(8)」って言いました。「主よ」っていうのは。奴隷が、「ご主人さま」って呼ぶ時の呼びかたです。ザアカイは、イエスさまの奴隷になりました。
 正しさの奴隷の、そのまた奴隷ですから。やっぱり、正しさの奴隷です。イエスさまよりももっと、正しさの奴隷です。
 それで……だから、イエスさまのことを好きになっただけじゃぁ、ないんです。イエスさまが「今日、泊めてくれ」って言って。「じゃぁ、イエスさまだけにご馳走しますヨ」って言ったンじゃァありません。
 今まで大嫌いだった、苛めたヒトたちです。そういうヒトたちのことが、急に大事なヒトになっちゃったんです。「悪いことして取ったものを、4倍にして返そう。貧乏で困っているひとには、自分の財産をあげちゃおう」って。今まで嫌いだったヒトたちのことを、急に好きになっちゃいました。

Z.
 誰でも、親切にされたら……。親切にしてくれた人のことは、好きになります。だけど、それだけだったら、「異邦人でも、徴税人でも、するではないか(マタイ5:46、47)」って。昔イエスさまがゆってました。
 ザアカイは、親切にしてくれたイエスさまのことだけじゃぁ、なくて。意地悪をしたヒトたちのことまで、好きになっちゃいました。
 ヘンですよね。みんなは、ザアカイのことはまだ嫌いで。ヤな奴……って。「罪深い男の癖に」ってつぶやいていたのに(7)。ザアカイは、そういう意地悪を言うひとのことまで好きになっちゃいました。
 ヘンですよね。イエスさまのオーラみたいなもので。イエスさまに親切にされたら、そんな風になっちゃいました。
 そうしたらザアカイはどうなったかって言いますと。
 どうなったでしょう。財産を施したんだから、貧乏になったハズです。だけど……ヒトのこと。周りのみんなのこと。大嫌いだったら、不仕合わせだけど。周りのみんなのこと、大好きだったら……。そうです、仕合わせです。
 ザアカイは、そうやって仕合わせになりました。めでたし、めでたし……という、お話しです。

[.
 ザアカイが、意地悪をしたヒトのことまで好きになったのは。どうしてかって言いますと。
 イエスさまが、神の子で。この時は、こうやってザアカイに優しくしただけですけれども。あとで、十字架にかかって死にました。人間の罪を、ご自分がかぶって。人間を、罪の奴隷から、助け出してあげたんです。
 そういう神さまだから。イエスさまが近付いて来た時。ザアカイは、変わっちゃったんです。罪の奴隷から、正しさの奴隷に、変わっちゃったんです。
 ザアカイが偉かったんじゃぁ、ない。イエスさまのパワーで変わったんですけど。だけど、そうやって変わって。イエスさまに変えていただいた通りに、その後もずっと、みんなのことを好きになって、仕合わせになったんだったら。ザアカイも、結構、偉いよネ。

 大人は、仲直りをするのが、子どもよりも下手です。ゴメンナサイを言った相手のことが、なかなか好きになれません。大人になるにつれて、仲直りがだんだん下手になって行きます。
 それは、人間が罪の奴隷で。どんどん、どんどん、身体に罪が溜まって行っちゃってるからだと思います。
 だけど、イエスさまは。そのたくさん溜まった罪を、全部、贖ってくださいました。
 イエスさまは、ひとを嫌いになれなくって。ザアカイのことも、好きになっちゃったんですけど。このイエスさまが、「僕のことも好きになってくれたんだなァ」って思い出した時は。大人になってからでも、十分に悔い改めることが出来る……。間に合う……。
 ヒトを嫌いになって、不仕合わせになるよりも。イエスさまに、一緒に居ていただいて。ゴメンナサイを言う時は、言うし。「みんなを好きになりたい」って。いつからでも、そうなろうとすることが出来るんだと思います。
 神さまは、大人も子どもも。みんなのことを、そういう仕合わせに導いてくれているんだと思います。

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